近代音楽のパラドクス:ウェーバー『音楽社会学』と音楽の合理化
リベラ・シリーズ6
和泉 浩 著  四六判 本体1800円 
ISBN4-938551-14-4

目次
序章
第1章 西洋音楽と2つの合理化
1 ウェーバーの音楽社会学の試み
2 音楽のなかの理性/3 音楽のなかの非合理性/4 音律における非合理性/5 多声性と記譜法/6 「間隔的合理化」/7 近代音楽の合理化の特性

第2章 ウェーバーとニーチェの音楽論
1 ウェーバー、ニーチェと音楽/2 ウェーバーの『音楽社会学』におけるニーチェの問題/3 音楽における2つの合理化/4 ディオニュソスとアポローン/5 アポローンの竪琴とマルシュアースの笛/6 理性へのまなざし

第3章 音楽の合理化と身体
1 音楽と合理化の概念/2 西洋音楽のなかの身体/3 近代における音楽の合理化/4 近代西洋音楽の両義性

第4章 ボードレールにおける音楽と「空間」
1 ウェーバーとボードレールの音楽論/2 「モデルニテ」/3 音楽と数/4 音楽と「空間」/5 「調和」としての「空間」

終章 青ひげ公の城
1 近代における美の物語/2 2つの身体/3 扉

注/文献/索引


 音楽は感覚(aisth sis)をその限界にまで導くのである.というのも,音楽が与えるものとは,あらゆる感覚の条件それ自体の感覚という,無限に逆説的な感覚だからである.あたかも音楽は,超越論的なものを呈示する,つまりあらゆる呈示そのものの全般的で純粋な可能性を呈示するという不可能な務めを課せられているようなのだ.しかもだからこそ,音楽は,こうした限界において,たえず限界なきもの(無限)を指し示すのであり,この限界なきものが音楽をその外縁に引きとどめるのである.事実,これが音楽の崇高な使命なのだ. 
フィリップ・ラクー=ラバルト


美なるものの輝ける現われ〔仮象として現われること〕は,輝き出ることしか望まぬ限りは誘惑するものとなって,悟性の追跡を招来し,そして,真理の祭壇へと逃げてそこに身を隠す場合にのみ,みずからの無垢を認識させるのである.この逃走をエロスが追う,追跡者としてではなく,愛する者として.そのようにして,美はその輝き〔仮象〕のために,つねに両者から逃れさることになる.つまり,悟性ある者からは恐怖のゆえに,愛する者からは不安のゆえに.そして愛する者だけが,真理は秘密を破壊するような〈被いを取るもの〉ではなく,秘密を秘密として正当に扱うところの啓示である,ということを証明できるのだ.
ヴァルター・ベンヤミン

一言:著者は音大に進学できたほどのピアノの腕前とのこと。その意味でも著者の力量が遺憾なく発揮できた著作でしょう。音楽の知識があってもなくても社会学の短編として楽しめる好著だと思います。