序 老い衰えゆく当事者の〈語り得ぬもの〉を「語る」ということ



 私たちは〈老い〉や〈老い衰えゆくこと〉をあまりにも安易に言語化してしまっている。いや、「あまりにも容易に」という表現さえも虚しく感じてしまうような、陳腐で空虚な言説が夥しく生産され、大量に、過剰に消費され、飽和点を越えて氾濫している感さえある。にもかかわらず、〈老い衰えゆくこと〉の言葉・コトバは「空白」の状態にあり、そうであるが故に〈老い衰えゆくこと〉が常に既に〈語り得ぬもの〉であり〈聴き届けられ得ぬもの〉であるという現実さえも忘却されてしまっているのではないかと思う。
 こうした〈老い衰えゆくこと〉をめぐる言語/言説の陳腐さ・空虚さによって、私たちは〈老い衰えゆくこと〉を経験している当事者たちの「言語の徹底的な不自由さ」を、つまりは〈老い衰えゆくこと〉が〈語り得ぬもの〉〈聴き届けられ得ぬもの〉であることを感得しつつも忘却してしまっているのであるが、そうした忘却のもたらす社会的帰結として、〈老い衰えゆくこと〉をまるで「自由」の対極として理解してしまっている?。言い換えれば、〈老い衰えゆくこと〉における「身体の意のままならなさ」を「不自由」としてのみ捕捉してしまうような、ひどく退屈で窮屈な理解があるように感じるのだ。

 最後に、本書の幾つかの留意点を述べておきたい。
 第一に、本書では「老い衰えゆく当事者」や「老い衰えゆく自己」と表記しているが、それらはいずれも「痴呆性高齢者」あるいは「痴呆性老人」と名づけられた/呼ばれている人々を想定している。したがって、本書のタイトルである「老い衰えゆく自己の/と自由」は「ボケゆく自己の/と自由」と書き換えることもできる。ただし、本書であえて「痴呆性高齢者の」とか、「ボケゆく自己の」といった表現を使用しないのは、「痴呆/非痴呆」の境界線が私にはよく分からない、うまく弁別することが不可能であると考えているからである。むろん、現象面のみに着目すれば、両者を弁別した上で対象を設定するということは可能なのであろうが、そこではむしろ「ボケゆくこと」にに現われる言動のみを照準化してしまい、その結果、〈老い衰えゆくこと〉の根源的暴力性といったものは捨象されてしまうと思うのだ。
 第二に、本書の第四章では「宅老所」や「小規模多機能ホーム」や「グループホーム」として呼称されている幾つかの先駆的・革新的なケアを実践している現場を取り上げているが、本書ではこれらの実践をことさらに賞揚するつもりは全くない。むしろ、現在において行われている宅老所などのケア実践のエッセンスを組み込んだ形の別の実践のあり方を探求するべきではないかとさえ思っている。言わばメ完成品モやメ切り札モではないのである。例えば、先駆的な宅老所のケア実践の〈場〉に内在する可能性は、現行の介護保険制度の運用のあり方を改編して滞在型のホームヘルプサービスを可能にした上で、自由な時間に参加可能なアクセシビリティーの高い場所として再設定することによっても実現可能だと考えている。つまり、現行の制度的枠組みにおける〈ケア〉の可能性として一定の評価をしながらも、常に別の選択肢を創造していく方向性があり得ると思うのである。
 第三に、上記と同様に、本書の第四章で取り上げた「べてるの家」についてもいわばメ手放しでモ賞賛しているわけではない。とりわけ分配的公正の観点からすれば、な空間で「そのままでいい」と「肯定」してしまうことは逆に為すべき「否定の否定」という最も基底的な「肯定」を捨象・忘却することにもなりかねないからである。ただし、本書では「べてるの家」でのケア実践の本質をな空間における「無条件の肯定」とは全く考えていないムむろん、そのように解釈されてしまう余地は十分にあるのも事実であるが。
 むしろ「宅老所」や「べてるの家」などのケア実践を通約する本質的可能性を、他者の「肯定」という視点から理解するのではなく、〈場〉において達成されている自己と自己の〈あいだ〉、自己と他者の〈あいだ〉、空間と空間の〈あいだ〉、時間と時間の〈あいだ〉、会話と会話の〈あいだ〉、コトバとコトバの〈あいだ〉、言説と言説の〈あいだ〉、場と場の〈あいだ〉、文脈と文脈の〈あいだ〉、そして〈能動性〉と〈受動性〉の〈あいだ〉、〈語り得ること〉と〈語り得ぬもの〉の〈あいだ〉、〈聴き届けられるもの〉と〈聴き届けられ得ぬもの〉の〈あいだ〉においてこそ、誰もが自らの〈当事者性〉を曝け出されることになるという視角から捉えなおすことが必要であると思う。
 最後に本書の副題の意味について言及しておこう。
 社会学においては「規範」に対置した概念を「実践」と呼ぶ。本書の副題の「高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論」の「実践」とはまさにそうした社会学的概念としての「実践」であり、端的に言えば「実際に行われていること」、つまりは「現実に生きること」を意味している。本書の副題はそうした意味における「高齢者ケアの実践論」を、あるいはその「実践」をめぐる「当事者論」を展望するつもりで付けたものである。言語学あるいは記号論の表現を借りれば、本書は「高齢者ケア」の「」ではなく、「」を、あるいはその「」としての「当事者論」を射程することこそ、最大のねらいとしているのである。だから、平たく言えば、先駆的な高齢者ケアを通してケア労働者は現実にどのように生きているのか、その高齢者ケアなる実践を通じて当事者はいかにして生きているのか、を探求する実験的試みであるのだ。