『老い衰えゆく自己の/と自由―高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』という些か奇妙なタイトルのついた本書は、幾重にも矛盾した、そして自己撞着的な出来事において瞬間的に立ち現われる〈自由〉について論じている。したがって、書き手である私自身も自己矛盾と自己欺瞞を抱えながらの執筆になるという苦痛の経験であった。それはきっと、現代において自由を論じることがある意味で最も困難なことであることの証明なのではないかと思う。
例えば、本書では1980年代以降において民間有志によって作り出されてきた宅老所における老い衰えゆく当事者とケア労働者との〈あいだ〉で瞬間的に感受される―まるで泡沫の如く一瞬のうちに立ち消えてしまうような―〈自由〉を論じた。しかし、あれこれの宅老所について知悉している読者ならお分かりのように、多くの宅老所における老い衰えゆく当事者やケア労働者のコミュニケーションは、それまでの「医療」や「看護」に準拠した「専門性」からの脱専門化を経由しつつも、あまりにも古典的な性役割を再演することによって保持されている。言い換えれば、1980年代以降の高齢者ケアとは「専門性」からの離脱を謳いながらも戯画的とも言えるほどの「ジェンダー規範」への呪縛によって駆動されていたことになる。つまり、1980年代以降の〈ケア〉の場における演出的な空間においてはそれまでとは別様の権力の形式が作動しており、それは言ってみれば「悪夢」から醒めた後もまた「悪夢」に魘され続けているということである。ことほど左様に自由を論じるのは難しいのである。
本書は、そうしたジェンダー規範に呪縛された諧謔的な劇的空間を演出する〈ケア〉の場においてはいわば「権力」と「自由」は癒合関係にありながらも、その隙間にそうした強力な権力から離脱・逸走する〈自由〉があるのではないか、それは束の間の、そして事後的にしか確認することのできないものであるが、それでも〈自由〉はあるのではないか、と思って書いた。そのような〈自由〉を構想しているゆえに、本書の書き方もできるだけ読者の予測不可能な、偶然性を孕んだ読み方が可能となるようにモザイク的あるいはパッチワーク的なスタイルを採っている(が、それも私の予測可能な範疇であり、その文脈から更に離脱・逸走していく)。
私はいつもながら「書く」という営為のうちに「言語の徹底的な不自由さ」という根源的な受動性を感受しながら本書を書いたが、恐らく、読者も「読む」という営為のうちに根源的な受動性を感得せざるを得ないと思う。それは決して「不自由」だけを意味するのではなく、〈自由〉へと転轍/変転する物質的契機となるのではないかと思うのだ。現代社会を生きる私たちは「悪夢から醒めた後の悪夢」という時代を生き抜くしかないのだが、そのうちにこそ〈自由〉を救い出すべきなのではないか。そう思う。
(C) AMADA Josuke